貧乏男爵令嬢のノーラ・クランツは、夜会でアランという見知らぬ青年貴族から、突然、婚約破棄を言い渡される。「誰? 婚約破棄って? そもそも婚約した覚えがないのだけれど」と内心で動揺するも、今度はその貴族と同じ顔をしたエリアスと名乗る青年が、ノーラと婚約したいと詰め寄ってきて――? 街では「紺碧の歌姫」と呼ばれ、ゆくゆくは歌を仕事にして街で暮らそうと思っていたノーラは、本人に秘密にされていた婚約によって、名門貴族カルム侯爵の双子たちに巻き込まれていく!
第8回ネット小説大賞受賞作。
貧乏男爵令嬢のノーラ・クランツは、夜会でアランという見知らぬ青年貴族から、突然、婚約破棄を言い渡される。「誰? 婚約破棄って? そもそも婚約した覚えがないのだけれど」と内心で動揺するも、今度はその貴族と同じ顔をしたエリアスと名乗る青年が、ノーラと婚約したいと詰め寄ってきて――? 街では「紺碧の歌姫」と呼ばれ、ゆくゆくは歌を仕事にして街で暮らそうと思っていたノーラは、本人に秘密にされていた婚約によって、名門貴族カルム侯爵の双子たちに巻き込まれていく!
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●プロローグ
――ノーラ・クランツは、後悔していた。
男爵令嬢のノーラは滅多に夜会に出掛けない。貴族の友人が多くない上に社交に力を入れていないので、招待される数が少ないということもある。貴族とは名ばかりの貧乏男爵家ゆえに、ドレスを新調できないというのもある。
だが、一番の理由は面倒くさいからだ。
何を着るとか、何を話すとか、誰と踊るとか踊らないとか。どれもこれも面倒くさいからだ。
そんなことに時間を割くくらいなら、服を繕つくろったり、掃除をしたり、お金を稼ぐために仕事をしたりしたい。貧乏暇なしとはよく言ったもので、ノーラもなかなか多忙なのだ。
ノーラは今年で二十歳になる。
貴族令嬢としては結婚適齢期の半ばを過ぎているが、未だに縁談のひとつもなかった。
菫色の瞳と青みがかった黒髪は美しいと言ってもいいが、他はとりたてて秀でたところが見当たらない、ごく普通の容姿だ。
貧乏生活のおかげで無駄な肉はついていないが、必要な肉も足りていない。慎ましやかな胸はちょっとした悩みであり、それもまたドレスを着たくない原因のひとつだ。
その日は数少ない友人の誘いで、久しぶりの夜会だった。
主催者は誰だったか憶えていないが、事業が上手くいったお祝いだとかで、なかなか盛大な集まりだった。
つまり、かなりの人数が参加していた。
煌びやかなシャンデリアが輝く室内に、華やかな衣装を身に纏った参加者。ダンスを踊る者もいれば、歓談する者、軽食に舌鼓を打つ者もいる。
そんな衆目の中、灰茶色の髪に檸檬色の瞳の美青年が、ノーラの前に立ちはだかった。
身なりから察するに、貴族の中でも恐らくは上位。金髪の可愛らしい少女を傍かたわらに連れているところを見ると、二人は恋人同士だろうか。美青年に美少女とは、実にお似合いである。
何にしても、邪魔をするつもりは毛頭ない。関わる気は、もっとない。知り合いでもないし、挨拶する必要はないのだから、さっさと通り過ぎようとした。
だが、青年は何故か再びノーラの前に移動すると、高らかに叫んだ。
「ノーラ・クランツ。おまえとは結婚できない。婚約を破棄する!」
水を打ったように、夜会の喧騒が静まった。
たくさんの招待客が、さっきまでの賑やかさが嘘のように動きを止めて、こちらに注目している。三角関係か略奪愛かなどとささやく声も聞こえる中、ノーラは口を開いた。
「失礼ですが、どなたでしょうか?」
その言葉を聞いた灰茶色の髪の青年が、少女を背に庇う。
「彼女を傷つけるのは許さない」
はたから見ると姫を守る騎士のごとき麗しい光景だ。美青年と美少女なので、絵面も悪くない。
だが特に感銘を受けることもないノーラは、ゆっくりと首を振った。
「いえ。そちらの女性ではなくて、あなたのことです」
ノーラが視線で示すと、青年は眉を顰めた。
「婚約者に向かってなんて態度だ。失礼だろう」
衆目の中で婚約破棄を言い出している時点で自分の方が何倍も失礼だろうに、そこはポーンと気前よく棚に上げたらしい。さすがは貴族。自分の都合が最優先のようだ。
どうも話が通じないので、ノーラはさっさと切り上げようと決める。
「婚約破棄は構いませんけれど。ひとつ、お聞きしたいのですが」
「はっ。侯爵家に未練が出たか? 今更、殊勝にしたって遅い。婚約解消の書類はもう提出してある」
青年はどうやら侯爵家の人間らしい。どこまでも上から目線なのは、そのせいだろうか。ノーラが過去に関わったことがある貴族の中でも上位だし、態度の大きさも上位である。
何故か勝ち誇ったように胸を張る青年に、ノーラは首を傾げた。
「そもそも婚約した覚えがないのですが。……あなたは、どなたですか?」
夜会の会場が再び、しんと静まり返った。
どこか遠くから、スプーンか何かを落としたらしい金属音が聞こえる。他には誰も音を立てないせいで、カラカラという音がいつまでも会場に鳴り響いた。
事態が理解できずに誰も動けない中、一人の青年がノーラの前に歩み出る。今度は何ごとだと思う間もなく、青年はノーラの前にひざまずくと顔を上げた。
婚約破棄と騒いでいる青年と瓜二つの相貌が、そこにあった。見間違いかと思ってじっと見つめてみるが、灰茶色の髪と顔立ちはまったく一緒。ただ、瞳は明るい空の色だった。
控えめに言っても絶世の美貌と表現していいだろう。
同じ顔のはずなのに、こちらの青年の美貌が際立つのは、態度による印象の差だろうか。兄弟か、双子か、よく似た親戚なのかはわからないが、男性にしておくのがもったいない。仮に女性だとすると、間違いなく傾国の美女と呼ばれるだけの美しさだ。
現実逃避気味の思考に耽っていると、ひざまずいたままの青年はまっすぐにノーラを見つめる。
その澄んだ空色の瞳が綺麗だな、と思った。
「ノーラ・クランツさん。私と婚約していただけませんか?」
そう言うなり、空色の瞳の青年はノーラに手を差し伸べる。同時に、周囲から黄色い声と息を呑む音が聞こえてきた。あれほど静かだった会場は、あっという間に謎の熱気に包まれている。
ノーラはしばし瞬いて、深いため息をついた。
「お断りします」
ああ、やはり夜会になんて参加しなければよかった。そうすれば、こんなわけのわからない目に遭うこともなかったのに。
――ノーラ・クランツは、後悔していた。
「婚約破棄」発売記念SS 婚約破棄の前日譚
「ノーラ、一緒に夜会に行かない?」
ノーラは友人であるフローラの提案を聞いて数回瞬くと、そのまま首を振った。
「やめておきます」
ノーラ・クランツは一応貴族令嬢だが、クランツ男爵家は見事な借金を背負っており、一言で言うと貧乏だ。
当然のように流行りのドレスを仕立てるような余裕はないし、貴族の社交にも興味はなかった。
「そこを何とか。お父様がエスコートしてくれる予定だったけど、都合が悪くなって。その夜会の主催は事業拡大で今一番勢いがある家なの。どうしても挨拶に行きたいのよ」
フローラの家も男爵家だが、商売に力を入れていて裕福だ。
ここまで言うからには、主催者との繋がりが大切なのだろう。
「親類や、知人の男性にお願いしてはどうですか?」
「下手に誘うと親類に勘違いされかねないわ。面倒くさいのよ」
なるほど、裕福な家にはそれはそれで悩みがあるわけか。
フローラは可愛いので、単純に異性としても勘違いされたくないのかもしれない。
「たまにはドレスを着て華やかな場に行かないと、貴族令嬢であることを忘れちゃうかもしれないわよ」
「別に、構いません」
既に半分以上平民のようなものだし、今更貴族感を追い求めるつもりはない。
「素敵な出会いがあるかもしれないし」
「別に、構いません」
それにしても素敵とまで言われる出会いとは、一体どんなものだろう。
白馬に乗った王子様を夢見ろとでも言うのだろうか。
現在の国王が即位してそれほど経っておらず、王妃もいないので当然王子も存在しないのだが。
「それに、素敵って何ですか?」
呆れ気味のノーラの言葉を前向きなものととらえたらしいフローラが、瞳を輝かせる。
「色々いるのよ、社交界の素敵男子が! 有名どころだと、深紅の髪の公爵令息とか、美貌の双子とか、伯爵令息の騎士とか。私も会ったことはないけれど、噂から察するにかなりの美男子よ」
「はい。……誰一人知りません」
「ああ、もう。社交不足がこんなところにまで影響しているなんて!」
フローラは頭を抱えているが、そもそも社交界の素敵男子が参加するかどうかもわからないし、参加していたところでノーラと関わることはないのだが。
「……お願い、ノーラ」
困った様子で懇願するフローラを見たノーラは、小さくうなずいた。
「いいですよ」
「――何で、急にあっさり承諾するのよ!」
「貴族らしくとか素敵男子はどうでもいいですが、フローラが困っているのなら手伝います」
フローラはぴたりと動きを止めたかと思うと、そのままノーラにぎゅっと抱き着いた。
「ありがとう! ああ、もう。ノーラが男性だったら私が婿に貰ったのに!」
「私が男性だった場合にはクランツ家の跡継ぎになるので、難しいと思いますが」
「そうじゃないの。好きってことよ」
フローラに微笑まれ、ノーラもつられて笑みを返した。
「ということで、夜会に行こうと思います」
帰宅したノーラはドレスを引っ張り出しながら、父にそう報告した。
何せ久しぶりに着るので、虫に食われて穴が開いていないか確認しなければいけない。
さすがにアクセサリーをまったく身に着けないわけにもいかないので、母のものを借りることにしよう.
「行くのはいいけど。珍しいね」
ノーラがテーブルの上にドレスを広げたので、父はティーカップとソーサーを持ってその様子を見ている。
「コッコ男爵の代わりに付き添いですね。たまにはドレスを着て華やかな場に行かないと、貴族令嬢であることを忘れると言われました。あわよくば素敵な出会いもあるそうです」
「ええっ!?」
父の声とともにカップとソーサーが激しい音を立てたので、素早くドレスを手元に引き寄せる。
ドレスに紅茶をこぼされては困るので、テーブルの上に広げるのは諦めた。
「す、素敵な男性がいて声をかけられても、ホイホイついていったら駄目だよ」
「行きませんよ。大体、私に声をかける価値なんてありませんし」
容姿が優れているわけでも、特に若いわけでもない貧乏男爵令嬢だ。
素敵な男性とやらならば、それに釣り合う女性が山程いるだろう。
当然のことを伝えたのだが、何故か父の眉間に皺が寄る。
「価値はあるよ。ノーラは可愛いし、いい子だし、あれこれできるし。上位貴族だって求婚するくらいの、素晴らしい娘だからね」
父は真剣な様子で捲し立てたかと思うと、急に真顔になり、そして慌て始めた。
そのあまりの落ち着きのなさに、ノーラもドレス確認の手を止めてため息をつく。
「慰めてくれるのはありがたいですが、さすがに言い過ぎです。後悔して慌てるくらいなら、無理しないでください」
前半もかなり親の贔屓目が入っているが、後半に至ってはもはやただの願望ではないのか。
呆れながらドレスに視線を落とすと、小さな穴を発見した。
どうせ塞ぐのならば、ついでにフリルをつけて華やかにしてはどうだろう。
もう着られないドレスに綺麗なフリルがあったので、ちょうどいい。
「……本当に。ノーラは上位貴族に見初められる、いい子なんだからね」
裁縫道具を出してフリルのことで頭がいっぱいのノーラには、父の呟きは届かなかった。