神田區は神保町。
市電の停車場から南に下った書店街の一角に、その店はある。
銅板葺きやタイル仕上げの洋風意匠の書店が並ぶ中、ひときわ目を引くのは、石造りの三階建てのビルディングだ。灰白色の石壁に濃緑色の鎧戸が映える、モダンな洋風建築である。
その一階部分、右から二番目。濃緑色の扉の上部にはめ込まれた窓硝子には、白い文字でこう書かれていた。
『Cafe Grimm』――カフェー・グリム。
『昭和の
流行(はやり)の女給こそいないが、洋風の店内には落ち着いた意匠の調度品が置かれ、静かで居心地が良いと評判だ。もっとも、多くの客の目当ては、店内に置かれた本棚に並ぶ豊富な洋書であろう。年配の給仕が淹れる絶品の珈琲をお供に、読書に耽るのが常連客の楽しみだ。
そんなカフェー・グリムに、近頃、新しい給仕が入った。
六尺を超える高い背に、彫りの深い端正な顔と白い肌、栗色の波打つ髪と緑がかった淡褐色の目を持つ、若い青年だ。
一目で西洋人の血を引くとわかる彼は、入っても間もないというのに、異国情緒溢れるカフェーにしっくりと馴染んでいた。
洗練された物腰で接客し、穏やかな響きの良い声で日本語はもちろん、英語、ドイツ語を巧みに操る。どんな客にも機知に富んだ会話で朗らかに応対して、年配の給仕とも息の合った仕事ぶりだ。
乙木夫人に誘われて、店で働くようになったという彼の素性は知れない。乙木夫人が仕事先の欧州から連れてきた若い愛人か、はたまた、育ちの良さを見ると、どこぞの欧州貴族のご落胤を預かっているのか――。もっとも、そんな野暮な質問をする者は、この風雅な店にはいない。
珈琲の芳醇な香り、豊富な洋書。そして、西洋人の青年。
まるで本当に異国のカフェーに来たようだと、店を訪れる客達の間で評判になっているという――。
***
午前十時。
カフェー・グリムの開店準備において、千崎理人の主な仕事は店の掃除だ。
昨晩の閉店後に軽く掃除はしてあるが、埃というものはすぐに溜まる。本棚や壁の絵の埃を払い、床を掃く。テーブルの上に上げていた椅子を降ろして、固く絞った布巾でテーブルを丁寧に拭きあげていく。
艶を帯びた焦げ茶色のカウンターの方も、同様に拭いていた時だ。
ふと、理人の指先に何か当たった。カウンターの隅に何かが転がる。小さく丸い――珈琲豆が一粒、そこにあった。
昨晩からあったのだろうか。気づかなかった。
摘まみ上げて見ていると、カウンターの奥にある控室から、五十代ほどの痩身の男が出てくる。
セルロイド縁の丸眼鏡をかけ、灰色の髪を撫でつけた老紳士といった風情の彼は、三宅という。カフェー・グリムの店員であり、理人の先輩だ。
三宅は、珈琲をいれるサイフォンのフィルターを入れた容器を手にしていた。彼の主な仕事は、珈琲を淹れることである。
ちなみに、理人は珈琲に関することはさせてもらえない。素人には任せられないのだろう。ましてや、理人はある『賭け』により、三か月という限定された期間で雇われているのだから。
三宅に視線をやると、彼はすぐに気づく。
「理人君、どうかしましたか?」
「いえ、何でもありません」
首を横に振って、理人はカウンターを拭く作業を再開した。
手の中に隠した珈琲豆を、給仕服のポケットにこっそりとしまいながら――。
「三宅さん、書斎の方を掃除してきます」
そう言って、理人は箒と布巾を手にして、蘇芳色のカーテンが掛かった店の奥へと向かった。
天井の高い広々とした半地下の空間は、窓からの光もあって明るい。緑色の絨毯の敷かれた室内の四方には本棚が配され、まさに『書斎』だ。
中央には丸いテーブルとソファーのセットがあり、チェス盤や将棋盤が置かれている。壁際にある書斎机には、万年筆やインク壺、アルファベットと数字が羅列する紙の束が載っていた。
今日はまだ、書斎の主は来ていないようである。
理人は部屋の隅にある一人掛け用のソファーに近づき、座面に置かれていたクッションを持ち上げる。そうして、ポケットから珈琲豆を取り出すと、ソファーの座面に置いて、クッションを元の位置に戻した。
軽く手を払って、「よし」とほくそ笑む。
すると、カチャリと小さな音がした。理人は急いでソファーから離れ、階段の傍らに置いていた箒を手に取る。
素知らぬ顔で床を掃いていれば、本棚の一部がまるで扉のように開いた。本棚に作られた隠し扉から現れたのは、一人の少年だった。
さらりとした黒髪に、日に焼けたことなどなさそうな白い肌。小さな卵型の顔には小ぶりながらも形の良い鼻と薄紅色の唇が収まっている。造作の整った少年は、鼠色の上着に膝下丈のズボンと揃いのベストを纏い、襟には露草色のリボンタイを結んでいた。十二、三歳くらいの、いかにも両家の子息といった態である。
「おはようございます、千崎さん」
「やあ、おはよう……カホル君」
理人は彼の方を向き、微笑んで挨拶を返した。
少年の名は、『小野カホル』。このカフェー・グリムの雇われ店主である。
――もっとも、これは仮の名前だ。
少年の本当の名も、その素性も、理人は知らない。
彼の名を当てることこそ、理人が少年と交わした『賭け』なのだから。
小野カホルと出会ったのは、一か月ほど前のことだ。
帝大卒業後、職にも就かずにその日暮らしをしていた理人は、とうとう居候先から追い出されそうになっていた。仕方なく、知人である乙木夫人に相談しようとサロンを訪れた時に、彼と出会ったのだ。
カホルは、職と住居を求める理人に、ある『賭け』を持ち掛けてきた。
『願いを叶える代わりに、私の名前を当ててみて下さい』
そうして、三か月間、カフェーの給仕として理人を住み込みで雇うと約束し、さらに三か月以内に名前を当てれば、その住み込みの部屋を無償でくれるという。モダンで豪華な乙木ビルの一室を、である。
条件の良すぎる話だ。もっとも、この条件には裏があった。
カフェーの店主の仕事の傍ら、カホルは乙木夫人に持ち込まれた相談事を解決する、いわば『探偵』の仕事を受け持っていた。
しかしながら、優れた推理力で事件は解決できても、見た目は子供だ。相手が不安や不信を抱かぬよう、カホルは理人に『探偵』として表に立つことを頼んできた。つまり、彼の代理である。
幾つかの事件を通し、理人は間近で、カホルの博識ぶりや優れた観察力を目の当たりにすることになった。
そこで――
理人は、先ほど、ある
……さて、彼は気づくだろうか。
理人は床を掃きながら、横目でカホルを観察する。風呂敷包みをテーブルに置いた後、一人掛けのソファーに歩み寄ったカホルは、一歩手前で立ち止まった。
「……このソファーは、座り心地が悪そうですね。珈琲豆の痣ができてしまうかもしれませんよ――千崎さん」
振り向いたカホルが、じっと理人を見てきた。
何も知らぬ人にとっては、意味不明な台詞である。
だが、悪戯を仕掛けた本人としては、珈琲豆を仕込んだことも、その意図もすべて見破られて、唖然とする。
「……君はお姫様よりも繊細だったのかい?」
「さあ、どうでしょう。むしろ『エンドウ豆』であったのなら、座ってもわからなかったかもしれませんよ」
言いながらクッションを持ち上げて、珈琲豆を摘まみ上げたカホルは、にこりと微笑んだ。
――理人が仕掛けた悪戯は、ある童話を模したものだった。
デンマークの童話作家、アンデルセンが書いた『エンドウ豆の上に寝たお姫様』の話である。
童話の中では、お姫様が本物のお姫様かどうかを確かめるため、ベッドを用意する際、たくさん重ねた布団の下にエンドウ豆を仕込む場面がある。繊細なお姫様であれば、どれだけ柔らかい布団を重ねても、布団の下のエンドウ豆が身体に堪えるからだ。
『何か固いものがあって、身体中に痣ができて眠れなかった』
そう答えたお姫様を、王子様はお妃として迎える――という話である。
童話好きのカホルなら、仕掛けた悪戯が何の童話を模しているか、わかるだろうとは思っていた。
だが、ソファーに座る前からすべて見破られてしまうなんて。お姫様のように繊細……どころではない。
――何故わかったのだろう。
理人が眉根を寄せていれば、カホルはクッションをソファーに戻しながら、まるで見透かしたかのように答える。
「私には、物を元の場所に戻すときに、ある決まりがありまして」
そう言って、クッションをソファーの中央から少しずれた位置に置いた。
「例えばこのクッションは、中央から少し左側に寄せて置く。インク壺はラベルを正面ではなく右側になるように置く、チェス盤に駒を一つ置いておく……というように」
だから、クッションの位置がずれていることがわかりました、とカホルは事も無げに言う。
「しかも、近づいたら珈琲の香りがしました。珈琲の香りは強くて特徴がありますから、わかりやすいのです。ところが、クッションやソファーに、珈琲で濡れた様子はありません。今の時間だとまだ、珈琲も淹れていないでしょうしね」
たしかに、今頃は三宅がサイフォンの湯通しを終えて、珈琲豆を挽き始めていることだろう。
「珈琲が零れたわけではありません。では、珈琲の香りがする物を誰かが零した、あるいは置いたと考えられます。もしも挽いた粉であれば、痕跡もなく片付けることは大変でしょうから、豆のままではないかと。そして珈琲豆をソファーに忍ばせるような悪戯を、三宅がするはずはありません。……そうなると、犯人はあなたしかいません」
「……」
「横を通った時に、あなたから珈琲の香りがした時点でおかしいとは思いました。珈琲を淹れない、豆を挽くことも無いあなたが、開店前から珈琲の香りをさせているのですから。珈琲を持ってきている訳でもなく、掃除をしているだけなのに」
理人が持つ箒を示して、さらにカホルは言葉を続ける。
「それに、本棚の埃を掃う前に床を掃くのは、効率が悪いですよ。あなたらしくもない。何か考え事をしていたのですか? 悪戯が成功するかどうか、とか」
……図星である。
押し黙る理人に、カホルは
「もっとも、最初に気づくきっかけになったのは……あなたが、悪戯を企てる子供のような目をして、私を見ていたからですよ。ねえ、千崎さん」
「わかった、わかったよ。降参だ」
理人は両手を上げてみせた。
――本当に、聡い子だ。
ほんの悪戯心で、カホルの観察力を試そうとしただけなのに、ここまでやり込められるなんて予想外だった。理人の表情までしっかりと観察されていたようだ。
一粒のエンドウ豆が、お姫様を証明したように。
一粒の珈琲豆が、カホルを探偵――優れた観察力と推理力の持ち主だということを証明してみせた。
「悪戯をして悪かったよ。……しかし、よく珈琲豆の香りがわかったね」
たった一粒だ。そこまで強い香りがあるわけではないだろう。珈琲豆を持った指先を鼻に近づけて気づく程度の香りだ。
カホルは悪戯っぽく答える。
「おや、私はお姫様よりも『繊細』なんですよ」
「……」
本当なのか、冗談なのか。
判断しかねる理人に、カホルは薄く微笑む。
「もっとも、エンドウ豆よりは珈琲豆の方が、私の眠りを妨げることができますけれどね。珈琲は、眠気覚ましにぴったりですから」
そう言って、理人の手に珈琲豆を乗せた。
「さて……そんなことよりもこれを見て下さい、千崎さん」
カホルはテーブルに向かい、置いていた風呂敷包みを解き始めた。中には金属の缶があり、カホルがうきうきとした様子で蓋を開く。
入っていたのは、卵色のカステラに黒いものが挟まった、三角形のサンドウィッチのような形の菓子だった。
「『シベリア』です。文子さんが経営するミルクホウルで出しているものを頂いたので、持ってきました」
シベリアは、カステラの間に羊羹を挟み込んだ菓子だ。
甘いカステラに甘い羊羹。甘いものが好きなカホルが好みそうな菓子だ。
「京橋區の洋菓子屋のもので、カステラがしっとりとしていて、餡子が柔らかくてなめらかで、とても美味しいんですよ。よかったら、千崎さんもいかがです?」
「……いや、僕は遠慮しておくよ」
「そうですか、残念です」
残念と言いながらも、カホルの表情にそんな様子は欠片もない。理人に分けずに、独り占めできるからだろう。
「シベリアには珈琲が合います。ということで千崎さん、早く珈琲をお願いします。ああ、お皿とフォークも一緒に」
「……かしこまりました」
理人は恭しく一礼してみせて、踵を返す。
階段を上がる途中に見ると、蓋を閉めた金属の缶を大切そうに抱きかかえて、一人掛けのソファーに収まるカホルの姿があった。うっとりとした表情で目を閉じる姿は、幸せな夢の中、すやすやと眠っているかのようだ。
理人の悪戯をすぐに見破った挙句、気にも留めない余裕の態度。
渾身(とまではいかないが)の悪戯が、
「……」
――とびっきり濃い、飲めばしっかり目が覚める珈琲を、三宅に入れてもらおう。……いや、いつか、自分でも珈琲を淹れられるようになってやる。
そう決意しながら、理人は階段を上がったのだった。
「……」
石造りのモダンなビルディングを見上げ、一谷は感嘆の息を零した。
神田區は神保町。書店街の一角にある三階建ての建物は、灰白色の壁に深緑色の窓格子が映える、お洒落な外観をしている。
高級アパートメントのごとき建物の通称は『乙木ビル』。古びた四畳半の下宿部屋で暮らす、安月給の警察官である己には手の届くことの無い、まるで夢のような建物である。
そんな縁もゆかりもない乙木ビルに一谷が訪れたのは、ここに友人が入居しているからだ。
一谷の一高時代からの友人――千崎理人は、優秀な成績で大学を卒業したにもかかわらず、この二年間、職無し宿無しという生活を送っていた。見かねて己の下宿部屋に住まわせてやっていたが、千崎はふらふらとその日暮らし、堕落した生活を一向に改善しようとはしない。そこで、ひと月ほど前、一谷はとうとう彼を部屋から追い出すと脅しつけて、働かせようとしたのだが……。
千崎が直後に見つけてきたのは、何とも怪しい内容の仕事であった。カフェーの給仕という仕事は兎も角、こんな豪華なアパートに住み込みなんて、条件が良すぎるではないか。何とかなるさと呑気な友人であるが、楽観が過ぎるというものだ。
きっと何か裏があるに違いない、いつか痛い目に遭うのでは、と一谷は心配でならない。しかしながら、気を揉むこちらをよそに、千崎の生活は順調のようである。
『週末、遊びに来ないかい? 今までの礼も兼ねて、昼飯を奢るよ――』
そんな電話があったと、下宿の大家から伝言を受け取った一谷は、様子見がてら乙木ビルに訪れることにしたのである。
内心で気後れしながらも、一谷はエントランスの扉をくぐり、三階へと階段を上った。
***
「やあやあ待っていたぞ仁王君! さあ、さっそく脱ぎたまえ!」
「……」
一谷は無言で扉を閉めた。
扉の表に付いた金属製のプレートに『303』と書かれていることを確認し、さらに廊下にある窓の外を見て、ここが三階であることを確信する。
よし、とひとり頷き、再度扉を開けば――
「どうした仁王君、なぜ閉めた?」
栗鼠のような目を瞬かせて、花村が首を傾げた。
花村は、千崎の部屋の真下、二〇三号室に住むという男だ。
彼とは、千崎の入居時に出会った。見た目は二十歳そこそこの青年であるが、実際は三十路で、一谷よりも年上である。彼は売れっ子の画家であり、以前、鳥鍋やワインを奢ってもらったことがあった。
しかしなぜ花村が、千崎の部屋にいるのか。しかも、袖を捲ったシャツにズボンという、くつろいだ格好で。
どうしたものかとさ迷わせた視線の先に、栗色の髪の青年が現れる。
「やあ、一谷」
にこやかに片手を上げる友人は、なぜか上半身裸で、引き締まった白い胸を晒していた。
千崎と、花村。
同じ部屋の中にいて、片方が裸。
まさか、と一谷は目を剥く。
「おっ……お前、まさか、そんな……いったい何時の間に、花村さんとそんな仲に!?」
「え?」
「い、いや、俺は衆道に偏見を持っているわけではないぞ。ただ、事に及ぶのは
「少し落ち着きたまえ、一谷。とんだ誤解だよ」
千崎は苦笑して一谷の言葉を遮ると、事の経緯を話し始めた。
先日、千崎は花村に、ある人物の似顔絵を依頼したそうだ。代わりに、千崎がモデルになるという約束で。
花村の自室では現在、他の作品を仕上げているため、千崎の部屋でモデルをすることになった。千崎が上半身裸だったのは、そのためである。
なるほど、確かに通された室内は、テーブルが端に寄せられて中央に椅子が置かれていた。テーブルの上には何枚もの素描画が広がっている。
すっかりあらぬ方向に誤解していた一谷は、気まずげに頬を掻く。
「いや、まあ……経緯はわかったが、なぜそんな約束がある日に俺を呼んだんだ? 忙しいようなら日を改めるが」
「ああ、それは……」
「僕が頼んだんだよ。 せっかくダビデ君を描くのだから、仁王君も描きたいじゃないか。 ダビデ君は快く了承してくれたぞ!」
さも当然というように答えたのは花村である。
ちなみに『ダビデ』は千崎、『仁王』は一谷のことで、どちらも花村が付けた
花村はわくわくと期待に満ちた顔で、石墨に汚れた指先で鉛筆を掴み、写生帖の白いページ開いた。その姿を見ながら、一谷は傍らの千崎に声を掛ける。
「……なあ千崎」
「何だい一谷」
「お前、昼飯を奢るから遊びに来いと言っていたよな? モデルの件は一切言っていなかったよな?」
「うん。言ったら来ないと思ったからね。安心しなよ、これが終わったら今回の礼も兼ねて昼飯を奢るからさ」
「お前は……!」
騙したな、と千崎に向き直っても、裸のため襟を掴み上げることもできない。ぐぬぬ、と歯を食いしばっていれば、後ろからぽんと肩を叩かれる。
「ほら、何をしているんだ仁王君。約束通り、僕のために一肌脱いでくれたまえ!」
決して一谷が約束をしたわけではないが、断って出て行くのも気が引ける。
ここが、千崎に「お前はお人好しだ」と言われる
「……」
観念した一谷は、項垂れながら上着を脱いだ。
***
静かな室内に、鉛筆の走る音が響く。
「ふむ……やはり仁王君は、軍人らしい鍛え方をしているな。武道をやっているだろう? 腹筋が素晴らしいな。ダビデ君と違って、これまたいい筋肉だ。描き甲斐があるというものだよ……ああ、そう、もう少し腕を上げてくれまいか……うん、それで動かないでくれたまえ」
鉛筆を素早く動かしながら、花村が指示を出す。
部屋の中央の椅子に座り、ぎこちなくポーズをとる一谷を、千崎が目を細めて見てくる。笑いを噛み殺せていないのが、ありありと見てとれた。
「……千崎、笑うな」
「ああ、すまないね」
千崎は口元を押さえつつ、壁際のソファでゆったりと足を組む。すっかり見物客の態だ。
しかし、そのくつろいだ姿さえ彫像のように整っていた。
一谷のように、肩や腹にがっちりと筋肉が付いているわけではないが、白い肌はしっかりと引き締まっている。程よい厚みの中、薄く筋が浮く身体は、ネコ科の猛獣を思わせるようなしなやかさを有していた。
千崎は職無し時代に芸術家のモデルもやったことがあるらしく、随分と慣れて堂々としていた。一方の一谷は、上半身だけとはいえ、こうして裸体をまじまじと見られることなど初めてだ。
気恥しいわ、背筋がむず痒くなるわで、どうも落ち着かない。早く服を着て帰りたいものだが、真剣に素描を取る花村を見ると、辞去の意は告げにくい。
むしろ、こんな真面目な顔もするのだと、少し意外に思っていた。
足元に落ちた紙には、すでに何人もの一谷が描かれている。腕や肩だけを精密に描いたものもあれば、大まかに全身を描いたものもある。
力強い石墨の線は、しかし繊細に人体を描く。紙に描かれた腹筋は、白黒の陰影で表現されて、触れれば本当に凹凸がありそうなくらいだ。
花村は本当に画家なのだと、一谷は改めて実感した。
一時間ほど経っただろうか。喉の渇きと疲れを覚えた頃、千崎が見計らったように湯呑みを差し出してくる。
「グラスはまだ買い揃えていなくてね。湯呑みで悪いけれど」
「別に構わんが……何だ、これは?」
見た目は水のようだが、鼻に近づければ、すっきりとした爽やかな香りがする。口に含むと、甘酸っぱい味が広がった。ごくごくと飲み干せば、乾いた喉に染み渡り、コクのある甘さが疲れを癒す。
「……美味いな」
「レモネードだよ。カフェーで教えてもらったんだ」
檸檬のしぼり汁と甘いシロップを水で割ったものらしい。塩を少し入れるのがコツだと千崎は言う。
「最近は料理も習っていてね。今はオムレツを焼く練習をしているのだけど、なかなか難しくて」
「……お前はいったい何を目指しているんだ?」
呆れる一谷をよそに、花村は「美味い! お代わり!」と景気よく空のグラスを掲げていた。
小休憩を終えて、一谷は再びモデルへと戻り、花村は鉛筆を動かし始める。
「僕はな、人間を描くのが好きなのだよ」
花村は訥々と言う。彼が創作する絵画も彫刻も、人間をモチーフにしたものばかりだそうだ。
人間は最も身近な生命の神秘だと、花村は告げる。
「年齢、性別、職業、身分、その生活様式……諸々の要因があって、顔にも肌にも、体型にも差が出てくるんだ。元の素材は、血と肉で同じだというのに、外見が同じ人間など誰一人いない。不思議なことだろう? でも、奥にある命の根源は一緒だ。心臓、脳……機能は同じだというのに、何故にこれほどまでに違ってくるのだろうな。とても大きな謎を孕んだ存在だ、人間というのは」
それを観察して描いて、奥にある命の根源を突き詰めていくのが花村の目標だと、目に力強い光を浮かべる。
「僕の作品を通せば、男も女も、華族も平民も、金持ちも物乞いも、軍人も犯罪者も関係ない。服を剥いでしまえば、そこにはあるのは、結局ただの人間、一つの命なのだよ」
熱を込めて語る花村に、一谷は感心した。
花村はただの
真剣な花村に対し、一谷は姿勢を正した。まだ気恥ずかしさはあるものの、伸びた背筋のむず痒さは、あまり気にならなかった。
気づけばとうに昼を回っていたようだ。
千崎と交代しながらモデルをしていたが、時計を見れば、すでに十四時近くになっていた。レモネードで喉の渇きは潤せたが、腹は膨らまない。一谷の腹の虫が、ぐぅと切なく鳴る。
「花村さん、そろそろ終わりませんか?」
千崎が声を掛けると、花村はたいそう満足した顔で頷いた。
「うむ、そうだな。仁王君、ダビデ君、本当に良いものを見せてもらったぞ!」
「はあ、それは何よりです……」
長時間モデルをしていたせいで強張った肩を解しながら、一谷は苦笑した。
やっと服が着られると、シャツを手に取った時だ。じっと一谷を見ていた花村が急に「勿体ないな」と言い出す。
「仁王君、その身体は服で隠すようなものではないぞ。むしろ裸の方が美しい。そう思わないか?」
「いや、ですが、裸で往来を歩くのは……」
「なぁに、それじゃあ服を着ていると思えばいいじゃあないか。簡単なことだ」
「なっ……そんな訳にはいかんでしょう!?」
「あっはは、まるで『裸の王様』だね」
千崎が笑って言うのは、童話の題名だ。たしか外国の作家が書いた童話で、『皇帝の新衣装』や『霞の衣』とも訳されていたと記憶している。
――ある国に、新しい服が大好きな王様がいた。
ある日、城下町に仕立て屋を名乗る二人組の男がやってくる。彼らは、世界で一番の、特別な布が作れるという。曰く、『自分の地位にふさわしくない者や、馬鹿な人には透明で見えない布』と。
服が大好きな王様は、さっそく彼らに大金を払って服を作らせることにした。
しかし実は、特別な布なんて嘘っぱち、二人組はいかさま師であったのだ。
空の機織り機を動かす二人組の様子を見に来た、大臣や役人、王様には、もちろん布なんて見えやしない。本当に布が無いことも知らず、見えないことを知られたくない彼らは、「何と見事な布だ」と褒め称える。
そうして出来上がった透明な服を着て――実際には何も身に着けず――、町を行進する王様。人々は見えないことを気づかれぬよう、誰もが王様の服を褒め称えた。
そんな中、小さな子供が言うのだ。「王様は何にも着てないよ」と――。
あらすじを思い出した一谷は、そんな目に遭ってたまるかと首を横に振った。
千崎はシャツを羽織りながら、他人事のように言葉を続ける。
「さしずめ『裸の仁王様』ってところかな」
「茶化すな千崎! 花村さん、裸で往来を歩いていたら捕まります!」
「仁王君、裸など些細なことだ、気にする馬鹿者は放っておけばいいのだよ」
「些細じゃないし、俺が気にします! だいたい、俺は警察官で……」
一谷は抵抗するが、花村はその腕を引っ張って短い前廊下を進む。小柄なのになかなかに力があった。
「さあ、いざ行かん! 人間の神秘、育まれた美を皆に見てもらおうじゃあないか!」
「ちょっと、花村さ……おわっ!?」
花村が外の廊下への扉を開けた瞬間、腕の力が少し弱まったせいで、一谷の体制が崩れる。花村が「おお、これはいかん」と腕を引くが、そのせいで二人一緒に外へと転がり出る羽目になる。
「いっ……つつ……花村さん、大丈夫ですか……?」
花村を押し倒す形になった一谷は、咄嗟に彼の後頭部に腕を回していた。頭は打たずに済んだようで「うむ、平気だ」と間近から答えが返ってくる。
ふと、花村のくりっとした目が瞬き、一谷の上を見た。
「おお、淑乃嬢。今日も麗しくて何よりだな」
「……え?」
花村の言葉に、一谷は顔を上げる。
見上げた先には、箒を持った、若く美しい女性が佇んでいた。涼やかな容貌の彼女は、高倉淑乃。乙木ビルの管理人である。
会うのは二度目で、しかも距離が近く、一谷の頬に朱が走る。
「あ、あの、高倉さん……」
「――おい、大丈夫かい? 一谷、花村さん……」
そう言って廊下に出てきたのは、シャツの胸元を開けたままの千崎である。
半裸の一谷と、押し倒されている花村。シャツを羽織っただけの千崎。
ただならぬ雰囲気の三人を見つめた後、高倉淑乃は無表情のまま告げる。
「
――とんだ誤解だ。
一谷は慌てて、彼女に釈明する羽目になったのだった。
***
淑乃への誤解を何とか解くことができた一谷達は、千崎の部屋へと戻った。
どっと疲れが出て、一谷はソファで項垂れる。
身に着けたシャツのボタンはきっちりと留め、上着も羽織った。もうあんな醜態を晒すまい――と仁王のような顔で決意を固めていれば、花村が「いやあ、すまなかったな」と屈託なく謝ってくる。
「詫びと言っては何だが、昼飯を奢ろう。モデルの礼もしたいしな。連雀町の鳥鍋屋でもいいし、近くに牛鍋屋も蕎麦屋もあるぞ。帰りに甘味処に寄ってもいいな。最近できた店らしいが、粟ぜんざいが美味いと評判なんだ。土産には揚げ饅頭でも買おうか……」
素描画を抱えて部屋を出る花村を見た後、一谷は傍らに佇む千崎を横目で見る。
「……なあ千崎」
「何だい一谷」
「お前が飯を奢るんじゃなかったのか?」
「あれ、そうだったかな」
とぼける千崎。今回の諸悪の根源である彼の背中を、一谷は思いっ切り叩いて鬱憤を晴らした。
最初に読んだ探偵小説は、シャーロック・ホームズ。その次に読んだのは、明智小五郎と少年探偵団。
小学生の頃から熱中して読んでいた探偵小説を、いつか自分でも書きたいと思っていました。
また、大正~昭和初期の日本の、レトロでモダンな世界観が大好きで、本作『帝都メルヒェン探偵録』は、いわば好きが高じてできた作品です。『小説家になろう』においてはマイナーな文芸作品であり、まさかネット小説大賞でグランプリを頂けるとは露程も思わず。大変驚いておりますが、嬉しく思います。
本作の主人公は、ドイツ人の血を引く美貌の青年。謎めいた少年から童話に擬えた『名前当て』の賭けを持ち掛けられた彼は、『探偵』の代理役を頼まれたことから、様々な事件に巻き込まれていきます。
いばら姫、白雪姫、ハーメルン……などの皆さんにもおなじみの童話をモチーフにした謎解きと、昭和初期のロマン溢れる時代背景が絡み合った、独特の世界観を楽しんで頂ければ嬉しいです。